2016年12月31日土曜日

第12回〜徳育〜

学力が「学ぶ力」とするならば、それでは何のために学ぶのでしょうか。





それは自分という「個」を確立するためです。





しかし、一口に「個の確立」といっても、「和」を重んじる日本において「個」は馴染みませんでした。「自分」という存在は集団があって位置づけられるという文化風土の中で育ちながら、「個」を前提とする合理性や論理性を重視する教育を受ける。そういう二律背反的な状況が続いてきました。





その結果、自分が属する集団に応じて周囲に合わせることには敏感であっても、一体どれが本当の自分かわからなくなっています。「周囲に合わせない自分」を「最も自分らしい自分」と考えているようにも思います。





しかし、その自分も周囲があってはじめて成立する自分です。周囲の存在を前提としない「個」とは異なります。





「個」とは何がが判然としないので、子どもという「個でありながら個でないような存在」の扱い方もわからない。日本教育が根本的に抱える問題点は、最終的にこの点に行き着くように思います。





一方で、「個」を前提とした教育により、子どもたちは「個」へと向かっています。しかし、「個」そのものに対する教育がなされていないため、自己中心的で独り善がりな方向へと流れていきやすくなります。





成績さえよければ全て肯定されるという根強い風土も手伝い、学力は小さな自分の現状を維持するためのツールへと追い込まれていきました。





ここで舵を切るのが「徳育」です。古臭くて勉強の役に立たないという印象があるかもしれません。しかし、自己中心に傾いた学力のバランスを取り戻し、「個」を確立する上では欠かせないものです。





バランスのよい学力のもとに人は集まり、「他力」が生まれます。それは「個の確立」を匂わせるからです。「個」は、自分の学ぶ力がいずれ何らかの形でpublicという公共に還元されることを望みます。







2016.12.31